知性の限界

前回に引き続き、高橋昌一郎氏の著書。
理性の限界」の続編。

基本的な構成は「理性の限界」と同じ。
今回のテーマは、「言語」「予測」「思考」の3つ。

前作のように、それを裏付ける象徴的な理論は無いが、それぞれ以下の副題が付いている。

・言語 - 不確実性
・予測 - 不可測性
・思考 - 不可知性

前回同様、それぞれについてコメントしてみることにする。

言語 - 不確実性

こう言ってしまっては身も蓋もないが、私は全ては「言語」の限界が大元の原因ではないのか?と考える。

選択も科学も数論も、人間の扱う「言語」が不完全なのだから、当然不完全なものとなる。そう考えれば納得できる。
ヴィトゲンシュタインが「過去の「哲学的問題」は「言語的問題」にすぎない」と一刀両断した時点で、哲学問題は全て解決してるんじゃないだろうか??

語りうることは明らかに語りうるのであって、語り合えないことについては沈黙しなければならない

上記の結論が全てで、「無意味」な事は語らなければ良い。「哲学」は消え去って「自然科学」だけが残る、というのは真理だろう。

・・ただし、ここが重要なのだが、人間は完全に論理的な生き物ではない。意味の無い無駄話が好きなのだ(笑)これも真理。最近流行りの「Twitter」など、9割9分がどうでも良い会話だ。S/N(Sound/Noise)比を高くすれば良い、という思想で作られた「Google Buzz」はそれで失敗した。Twitterは、Noise(無駄話)が多いから面白いのだ!!
⇒【参考】Google Buzz がただの buzz で終わる(かも知れない)理由

つまり、「暇つぶし」のために、あるいはそれ自体が「楽しい」から、「意味の無いコト」をやり続けているのだ。哲学も数学も科学もそう。数学や科学で「真理」に到達できるという考え自体がそもそも間違っている。

ただし、だからと言って、数学や科学が無意味だとは私は思わない。「理性の限界」のまとめブログにも書いたが、科学の進歩は人間にとってメリットが大きい。それで寿命も延びたわけだし。しかし、その延長戦上に「真理」など無い。それを理解した上で、数学ゲームや科学ゲームで遊べば良い。

もっとも、「真理」は無くとも「フロンティア」はある。人間の「好奇心」は無限なので、意味があろうが無かろうが、決して「真理」に到達できなかろうが、新しい「開拓地」は必要なのだ。

要は楽しければよいわけだ。伸びた寿命が尽きるまでの暇つぶしが出来るネタがあればそれで良いのだ、人間は。

この結論が自分の中で腹に落ちてしまったら、あとの「予測」や「思考」はどうでもよくなってしまった(笑)最初はちゃんとまとめるつもりだっただんけどね。。

予測 - 不可測性

一応形だけでも紹介しておくと、「予測」の章では、自然科学で当たり前に用いられている「帰納法」に塞ぐことが出来ない大きな穴があることや、それに代わり、「反証」されるリスクのある予測こそが「科学的予測」である、という「反証主義」などが紹介されてる。

一応「複雑系」も出てくるが、そもそも何だ「複雑系」って(笑)「複雑すぎてわからない」って意味なんだから、「わからない」=「無知」って言えばすむじゃんか。。頭良い人はプライドが邪魔して自分を無知だと認めない、その結果生まれたとんでも言葉としか思えん。

要するに、結論は「予測」など不可能、ってこと。
未も蓋も無いけど。。

思考 - 不可知性

「思考」の章で面白かったのが、ファイヤアーベントの考え方。
「科学」を進歩させるためには、観察(帰納法)とはまったく無関係の「形而上学」が必要、とのこと。

形あるもの=「形而下学」は自然科学(主に物理学)だが、形の無いもの=「形而上学」は「心」だったり「神」だったり、要するに「イメージ」だ。「想像力」と言っても良い。「妄想」とも言えるが。。結局、科学も「想像力(イマジネーション)」が無いと進歩しないわけだ。

これって、ある企画やプロジェクトを成功させる場合も同じかもね。。
ビジネスというゲームでも、「想像力(妄想力)」がある人が、結局は何か新しいコトを生み出しているように思う。

さて、「理性の限界」⇒「知性の限界」と読んでみて、色々と思考実験が出来て楽しかった。自分の中で1つの結論も出たし。結局2冊通して改めて認識したコトは、「人間」の限界だったのかもしれない。「自然(科学)」はあるがままにあるわけで。。単に、それを人間の「言語」では説明できないってだけだもんな。。

同じ結論になるかどうかはわからないけれど、考えるコトが好きな人は読むべき本。時間あればぜひ手にとってみてください!!

今のところ「知性の限界」にコメントは無し

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