12月
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2019年12月

言わずと知れたバットマンの悪役「ジョーカー」 。
このジョーカーの誕生譚。

監督はトッド・フィリップス、主演はホアキン・フェニックス。

以前、同じくジョーカーが主役の映画「ダークナイト」を観たことがあった。
作品公開後に夭折してしまったヒース・レジャー演じるジョーカーも素晴らしい演技だったけど、今回のホアキン・フェニックス演じるジョーカーは、それに負けず劣らず素晴らしい。

特に、あの笑い方はなかなかマネできない。
引き笑いのような声は、笑っているようにも泣いているようにも聞こえる。
まさに怪演。
この映画が評価高いのも納得である。

さて、ストーリーについてだが、話としては結構単純。
先天的に笑い病とも言える病気に悩まされる主人公のアーサー・フレック(ジョーカー)が、売れないコメディアンを続けながらも慎ましく生きていたところ、様々な不幸が重なり、闇に落ちていく。

この不幸がまた1つ1つ重い。

最初に不良に襲われるのも気の毒としか言えないし、電車内で銃を使って3人を射殺するのもある意味正当防衛とも言える。しかし、殺人を犯してから、徐々に不幸度が上がっていく。出生の秘密を知り、さらに恋人だと思ってた人との関係性が実は妄想だとわかり、さらに自分の舞台がTVで流れ晒しものになってしまう。

最初、アーサーは社会(法)の枠に何とか納まろうともがいていた。
しかし、一度殺人を犯してから、徐々に狂気が増していく。そして、最後は社会の外へ飛び出し、心が解放されてジョーカーとなる。ジョーカーとなった後に、階段で踊っている姿はまさに解き放たれた姿そのもの。

そして、ラストへつながる。

前作のダークナイトでも感じたが、バットマンシリーズの登場人物は、アベンジャーズのような特殊能力を持ったヒーローではない。バットマンも結構普通の人間だし、ジョーカーも今作品で最後に車の事故でかなりダメージ受けてた。

おそらく、この設定が良いのだろう。
空飛んだり、敵をなぎ倒すようなヒーローものだと、ここまで悪役に共感はできない。1人のちっぽけな人間が、普通の人が感じる苦悩を通じて悪に染まっていくからこそ、その悪の姿に共鳴する。

そして、舞台となるゴッサムシティは、現在の「格差問題」を象徴している。
アメリカはそれほど詳しくないが、舞台は1970年代のニューヨークのサウスブロンクスあたりがゴッサムシティのモデルではないだろうか?
当時は相当な貧困街で、犯罪も多発していた超危険地域だったらしい。

映画を観てる人は、裕福な人が没落して、悪という形にしろ貧しい人が台頭していく姿にカタルシスを覚える。現在のアメリカ・・いや、日本含めて全世界でヒットするわけだ。それくらい全世界で格差が広がっている。私も、最初はいたたまれなくて観てるの辛かったけど、途中からだんだんとジョーカーに同調するようになったもんな。。。

それに、ジョーカー=「悪」と簡単な図式に落とし込むのは正しくない。

私はバットマンシリーズはダークナイト以外は観ていないので、鑑賞中は全く気付かず映画観終わった後で知ったのだが、最後暴徒に殺されるトーマス・ウェインの息子であるブルース・ウェインが、後のバットマンらしい。
最後のシーンでこの息子がやけにクローズアップされてたので「何でだろ?」と思ってたけど、なるほど、そういう理由だったのか。

ただ、このブルース・ウェインは、明らかにバットマン=「善」という描き方をされていない。これは「ダークナイト」に繋がる伏線なのだろうか?
つまり、この「ジョーカー」は「ダークナイト」と一緒に観て完結する作品なのだろう。

いずれにせよ、久々に良いハリウッド映画を観た。

我々の社会を維持するためには、ジョーカーは「悪」である必要がある。
しかし、そんな「建前」が通用しないほど、世の中に不満が溜まってきている。
その1つの現象が、この映画「ジョーカー」のヒットに隠されている。
単純な「善悪」の話ではなく、不幸で狂気的な男の誕生秘話ってだけでもない。評価が高いのは、ホアキン・フェニックスの怪演だけが理由ではないはずだ。

その背景をしっかり読み解くべきだ。

森達也監督の作品。

東京新聞に勤める1ジャーナリストである、望月衣塑子さんに密着したドキュメンタリー。

監督もこの作品の中で語っているが、「なぜこの人を撮っているのだろう?」という疑問が、この作品のすべてを表しているように思える。

望月さんは何もおかしなことはやっていない。
自分で取材して事実を調査し、疑問に思ったことを官邸記者会見の場で官房長官にぶつけているだけである。

それだけなのに、官邸からは嫌がらせを受け、特別ルールを設けられて質問数を少なくさせられてしまう。菅官房長官もまともに答える気がない。
(余談だが、こんな人間が「令和おじさん」として人気があるなんて、悪い冗談としか思えない)

これが、日本のジャーナリズムの現実だ。

この映画のテーマは、一言で言うと「記者クラブ」問題だ。

これは、特段目新しい問題ではない。
というのも、この作品にも登場していたが、私はジャーナリストの神保哲夫さんが運営されているVIDEONEWS.comをずっと見ているからだ。もう20年近くになると思う。

VIDEONEWS.comは、あるテーマを決めて、そのテーマに関して詳しいゲストを呼び、神保さんと社会学者の宮台真司さんが、様々な切り口から話を深り堀りしていくインターネット番組だ。毎週新規コンテンツが追加され、だいたい1本2時間ほどある。

この中で、神保さんは日本の記者クラブ問題をたびたび取り上げている。
今作の中でも30年間戦い続けている、とおっしゃっていたが、本当に昔からスタンスが一貫している。

その人の話をずっと聞いてる身としては、この作品で扱っているテーマは当たり前のことすぎて、目新しさがなかった。

望月さんは、まだ東京新聞という記者クラブ内のグループに所属しているから質問ができるが、記者クラブに属していない神保さんはあの場で質問すらさせてもらえない。さらに、質問内容も事前に提出する必要があり、答えが用意してある。台本が決まっている芝居なのだ。しかも、その他の新聞社の会社員(≠ジャーナリスト)たちは、同じ立場の望月さんを助けようともしない。

これが、あの官邸記者会見の真実である。

こんな状態で民主主義?
知る権利に答えてる?
国民が大事?

本当に悪い冗談である。

阿部政権や菅官房長官が特別な悪人というわけではなく、戦後ずっと続いてきた儀式なのだ。民主党政権のときに少しだけ変化があった。それまでは、フリーのジャーナリストが記者会見に入ることすらできなかった。それでもまだこの程度だ。

本来は、この作品は成立しない。
望月さんは、欧米などのジャーナリストが「当たり前」にやってることをやってるだけなので。しかし、それが作品になってしまう。それが今の日本だ。

ジャーナリズムは民主主義の基盤だ。
マスコミが正しく機能し、権力者に阿ることなく質問をぶつけ、国民に正確な事実を伝えたり議論の種を提供してこそ、民主主義は機能する。

現在の日本社会のヒドイ状態は、民主主義が機能していない結果でもある。その大きな要因が、この作品のテーマでもあるジャーナリズムの機能不全だ。

映画観終わった後で調べたら、望月さんは私と同い年だった。
これからも健康に気を付けて、この腐ったマスコミ業界に小さな楔を打ち続けるため、頑張り続けてもらいたい。