理性の限界

高橋昌一郎氏の著書。

読み終わったのは半年くらい前なのだが、ブログ更新サボってたので、2010年やり残したコトを片付ける意味でブログにまとめようと思う。

さすがに半年前なので細かい内容忘れてる。なので、まとめる上で、改めてざっと読んでみたが、やっぱり面白い!この本!!

この本のテーマはタイトル通り。
「理性」に限界はあるか?

「理性」と言っても、色んな解釈あるのだが、この本では3つの象徴的な科学的証明を取り上げて、「選択」「科学」「知識」の限界を取り上げている。

その組み合わせは以下の通り。

・選択 - アロウの不可能性定理
・科学 - ハイゼンベルグの不確定性原理
・知識 - ゲーデルの不完全性定理

以下、それぞれについてコメントしてみる。

選択 - アロウの不可能性定理

この定理は聞いたことが無い。

しかし、この社会で重要な「民主主義」システムにそもそも矛盾があるという、知ることでかなり目からウロコが落ちる理論。

実際はかなり難解な定理らしいが、簡単にまとめると、個人選好が「選好の連結律」「選好の推移律」という2つの条件を満たし、社会が「個人選好の無制約性」「市民の主権性」「無関係対象からの独立性」「非独裁制」という4つの条件を満たす「完全民主主義」モデルには、論理的に矛盾が生じることを証明している(らしい)。

簡単に・・と言いつつ、これだけでもかなり難解。。

要するに、安易に「民主的」なんて言葉を使っているが、実は完全に民主的に物事を決めるプロセスは存在しないということ。笑い話のような「全員当選モデル」が紹介されているが、これがまた面白い!!選好プロセスとして、「単記投票方式」「上位2者決選投票方式」「勝ち抜き決選投票方式」「総当り投票方式」「順位評点方式」のいずれかを選ぶことで、条件は同じなのに何と結果が変わってしまうのだ!!つまり、今の日本の選挙は「単記投票方式」だが、他の方法で選挙を行えば、違う人が当選するということか。何とまぁ。。。

ちなみに、「単記投票方式」「上位2者決選投票方式」「勝ち抜き決選投票方式」で勝ち残るのが「両極端タイプ(敵・味方がはっきりしてる)」、独裁的な(リーダーシップのある)性格の人が当選しやすい。一方、「総当り投票方式」「順位評点方式」で勝ち残るのが「八方美人タイプ(誰からも好かれる)」、和を重んじる人が当選しやすいらしい。日本の政治は、リーダーシップのある人材が求められているので、とりあえず「単記投票方式」で良いのかも(・・「1票の重み」とか別の問題はあるけど。。)

上記は大多数で何かを選ぶ場合だが、「個人」で何かを選ぶ話として「囚人のジレンマ」「ゼロサムゲーム」「チキンゲーム」などが紹介されてる。

1回きりの「囚人のジレンマ」であれば、双方「裏切り」がナッシュ均衡(双方の利得最大化の均衡解)、繰り返しの「囚人のジレンマ」であれば、初回:「協調」⇒2回目:「相手と同じ」⇒3回目:「繰り返し」という「しっぺ返し(TFT)」戦略が有効、「ゼロサムゲーム」は「勝とうとするより、まず負けないようにする」という「ミニマックス戦略」が最も有効、「チキンゲーム」は2つのナッシュ均衡があり、捨て身の戦術が最も合理的な戦略になっている・・などなど。

詳細は本を読んでほしい。すごくタメになる。「ミニマックス理論」など、ギャンブルにそのまま使える。基本的にギャンブルは「ゼロサムゲーム」なので。

人の「選択」は、個人の利得を最大化する「個人的合理性」と、集団(社会)の利得を最大化する「集団的合理性」の衝突である、という最後の話が含蓄がある。。。結局、最後は人間性が試されると。。「私欲」と「公共善」のどちらを優先するか。。論理では最適解は見つからない(合理的な選択は出来ない)ってことだ。結局何を選ぶかは、どんな「価値」の判断基準を持ってるかが大事ってことだな。

その結論が出ただけでも、この本を読んだ甲斐があったわ。

科学 - ハイゼンベルグの不確定性原理

これは、何度か本で読んだ事があるな。。

地球上の一般的な物理法則であれば、ニュートン物理学(慣性の法則/運動方程式/作用・反作用の法則の3原則)で説明が出来る。運動する物体の速度が光の速度になったり、すごく強い重力場の場合は、アインシュタインの相対性理論で説明できる。

これらマクロな自然現象(古典物理学)に対し、ミクロな自然現象は量子論などがあるが、このミクロな世界の中で「プランク定数(10の-34乗)」より小さい値になってしまうと、観測機器(観測行為そのもの)が対象に影響を与えてしまい、正しい「観測」が不可能となってしまうことを、ハイゼンベルグは証明した(らしい)。要するに、対象の位置も運動量も予測できない=「不確定」ということ。これは理解しやすいな。

「多世界解釈」なんて話も紹介されてるが、正直アホらしい考え方。
章の一番最後に、「なぜ科学を選ぶべきなのか?」という根本的な疑問に答えなければならない、という問いが提起されているが、本当にその通りだなーと感じる。

何でもかんでも「科学」で証明できると宗教のように盲信していると、「多世界解釈」なんてとんでも理論が生まれる。実際そういう人が多すぎるように思う。

もちろん、科学(物理)はスゴイ考え方だと思うし輝かしい実績も残してる。産業革命は人間に測り知れないメリットを与えたし、医学の進歩は人の寿命も延ばした。良し悪しは置いておいて、「E=mc2」は核エネルギーを生み出し、原爆を作り、今は電気を作っている。だから、「科学」を否定しようとは思わない。しかし、私は「盲信」はしない。「盲信」しすぎると、「シュレーディンガーの猫」とか「多世界解釈」とか、普通に考えて明らかに「おかしい」考え方で「科学」を擁護するようになってしまう。それは嫌だ。。

科学者は、特に「科学」と一定の距離を保った上で「科学」を扱って欲しいな、と私は思う。

知識 - ゲーデルの不完全性定理

不完全性定理については、以前このブログ「不完全性定理」で書いた。ブログ読み返してみても、ちゃんと理解できてないなーって感じる(笑)今回もちゃんと理解できてるかわからないけど。。

自分なりに、簡単にまとめると、論理の世界では「真理」と「証明」が同等(述語論理の完全性定理)だが、数学(自然数論)の世界では「真理」と「証明」が同等ではない=汲み取れない「真理」がある(自然数論の不完全性定理)、これがゲーデルが証明したこと(らしい)。

発表当時、数学の完全性を証明しようと考えていた人達にはショッキングな理論だったんだろうけど、元々数学を絶対的な物だと考えていない自分にとっては、それほど重要度が伝わらない理論だわ。。ましてや、「神」の完全性なんて・・。

その他は、「チューリング・マシン」の話もあったけど・・本質ではないと思うので触れないことにする。

最後、一番大事なテーマと感じた、以下の言葉を引用して終わりたい。

「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めること」

・・さーて、次は続編の「知性の限界」を読んでみることにしよう!!

以下は目次。

序章 理性の限界とは何か(選択の限界
究極の限界値
科学の限界
知識の限界
ディスカッションのルール)
第1章 選択の限界(投票のパラドックス
アロウの不可能性定理
囚人のジレンマ
合理的選択の限界と可能性)
第2章 科学の限界(科学とは何か
ハイゼンベルクの不確定性原理
EPRパラドックス
科学的認識の限界と可能性)
第3章 知識の限界(ぬきうちテストのパラドックス
ゲーデルの不完全性定理
認知論理システム
論理的思考の限界と可能性)

今のところ「理性の限界」にコメントは無し

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