published by よねさん

佐々木俊尚さんの新書。

この人の本は今まで何冊か読んでるけど、自分の考えとも近く、本の書き方もすごく丁寧でわかりやすくて好き。感性に合うというか。

この本は、発売されてたことは知ってて、しばらく買おうと思わなかったんだけど、自分がよく観てるインターネットニュース「マル激トーク・オン・デマンド」で宮台氏が「素晴らしい!」と絶賛してたこともあって、さっそくAmazonでポチッと。。すっかりAmazonでの購買行動が日常化してしまってるな(笑)

さて、まずは目次から紹介。目次観た方が自分もまとめやすいので。

プロローグ 三つの物語
第一章 夜回りと記者会見――二重の共同体
第二章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか
第三章 一九七〇年夏のパラダイムシフト
第四章 異邦人に憑依する
第五章 「穢れ」からの退避
第六章 総中流社会を「憑依」が支えた
終章 当事者の時代に

最初のプロローグで3つの短い物語を紹介し、その物語が後の章の各テーマの中で詳しく説明される、というなかなか粋な構成になってる。「物語」として文章を書くっていう一例。なるほど、と感心。惹きつける文章&構成だわ。自分も見習わないとな。

で、あとがきで著者は以下のように書いてる。

今この国のメディア言論がなぜ岐路に立たされているのかを、よりロジカルに分析できないだろうか ー そういう問題意識がスタート地点にあった。
・・・・・
本書の中心概念は2009年ごろから考えはじめ、そして全体の構想は2011年春頃ごろにほぼ定まった。しかしその年の春に東日本大震災が起き、問題意識は「なぜマスメディア言論が時代に追いつけないのか」ということから大きくシフトし、「なぜ日本人社会の言論がこのような状況になってしまっているか」という方向へと展開した。

とにかくこの本は長い。新書なのに全460ページほどある。

この辺りはAmazonのレビューとかでも酷評されてたけど、元々上記の問題意識がスタートだったんだから当然かなとも思う。「ロジカルに分析する」には200ページほどじゃ収まらんかったんでしょう。途中でテーマが少しシフトしたことも長くなった一因ではあるんでしょうけど。

はじめはマスメディアの実情の説明から始まる。
よく言われる「マスメディアは権力とズブズブな関係」なんて一般論に逃げることなく、著者の実体験を交えて、取材する側と取材される側(官公庁)の関係性をまさにロジカルに分析してる。そこに描かれるのはめちゃくちゃわかりづらい関係性・・こんなの当事者じゃないとわからんわ。。

で、その関係性を保ちつつも、何故か「アウトサイダー」を自任したがるマスメディア人の気質も分析している。アウトサイドから「市民目線」で「権力」を批判をする。

そもそも「市民」て何なのか?

著者の言葉を借りれば「マイノリティ憑依」という現象。これが本書で一番重要な概念。マイノリティに憑依することで「市民」の意見を代弁している(気になっている)。あるいは、個人的関係をベースとした「夜回り共同体」からの情報という徹底的にインサイドからの視点。徹底的な「インサイド視点」と、マイノリティ憑依することでの「アウトサイド視点」。いずれにせよ、「当事者」の視点ではない。そこが現在マスメディアの問題点とのこと。

とは言え、最後の章で取り上げられてたカメラマンの方の人生を考えると、「引き受ける」=「当事者」になることが、幸せになる道というわけでもない。相応の苦労も背負い込むことになる。なので、この本では結論は述べない。たしかに、他人に「当事者になれ」と強制はできない。その先がツライ道だとわかっていればなおさら。。

自分が「覚悟」を決めて引き受ける(当事者になる決意をする)しかない。

この本は、元々はマスメディア関係者に警鐘を鳴らすために書き始められたものなんだろう。けど、その過程で東日本大震災が起こってしまう。震災後にソーシャルメディアで語られる無責任な言葉の数々。

・「被害者」の立場に立てばそんなこと言えないはずない。
・被災した人のことを考えず、よくもそんなことがことが言える。
・被災地の子供がどんな思いで生活しているのか。
・こんな時に明るい番組を放送するなど不謹慎だ・・などなど。

お前らは被災した当事者か?

見事な「マイノリティ憑依」。結果として、マスメディアは自主規制。勝手に「被災者」という弱者(マイノリティ)に憑依し、さもその人達の意見を代弁している気になっている。

1昨年のTwitter、昨年のFacebookの流行で、一気に花開いた「ソーシャルメディア」という新メディアにも、こういった落とし穴が隠されている。著者が当初ターゲットにしていた「マスメディア」から「日本人社会の言論」まで枠を広げたのもそれが理由だろう。ソーシャルメディアは誰でも「発信者」=「メディア」になれる。だからこそ、誰でも発信する際に「マイノリティ憑依」することができる。

著者はソーシャルメディアの可能性についても述べていたが、それは「当事者」としての言葉を語ることができる可能性があるからだ。マイノリティ憑依してアウトサイドから無責任な言葉を発するのではなく、自分がインサイドにいるという自覚を持ち、自分の立ち位置をしっかり固定して、その位置から「当事者」としての言葉を発する。

大阪に住んでいる私は被災者ではないし、一生今回の震災の当事者にはなれない。

 だから、被災者の立場に立ったつもりになって語るつもりはない。「同情」はできても「共感」はできない。私の生活の基盤は今は大阪にあるし、仕事や様々な関係性の中にある。そこに軸足をしっかり置いた上で、被災地や被災者へサポートできることをサポートすればよい。

自分が語れることは、自分が「当事者」と自覚できる「インサイド」という枠の中にしかない。

私はこれからもブログやTwitterやFacebookなどのSNSを利用して発信していく。「Web2.0」時代の象徴とも言える、これら「ソーシャルメディア」はそれが出来るツールだし、著者同様私も様々な可能性があると感じているので。発信する声は1個人の声なのでかなりか細く小さいけれど、公共に向けて発信している以上、これも1つの「メディア」だ。その役割を果たすためには、居心地の良い「アウトサイド」に陥ることなく、自分が「当事者」としての言葉で語れるよう、これからも注意して発信していきたい。

あと、本書には出てない概念だけど、「マジョリティ憑依」も自分が行わないように注意したい。

・国民はこう思ってるはずだ
・我々市民が考えていることは・・
・我々有権者としては・・などなど。

これらの言葉は「マジョリティ憑依」だ。「我々(国民)」というマジョリティを語っている気になれる。
著者は元マスメディアの関係者だからこの言葉はまず使わないと思う。「我々」という一人称の言葉を使った時点で、第三者的な俯瞰的視野が無くなる。まさに「当事者」になってしまう。マスメディア関係者にとってはかなり覚悟がいる言葉だから。けど、マスメディア人ではない自分は、この言葉を使う誘惑に狩られることが多い。「皆が思ってることだから、私が代弁してあげているんだ!!」・・と。これも構造的には「マイノリティ憑依」と一緒。インサイドから発している言葉のように見えて、結局アウトサイドからの言葉でしかない。

なぜなら、インサイドには「国民」や「市民」なんて言葉で一纏めにできる人はいないんだから。在るのは「自分」のみ。「自分」がどう考えるか、そしてどう行動するか、語れるのはその「自分」視点の主張だけなんだから。。

そういった視点に改めて気づかせてくれた本書には感謝。

Amazonのレビューでは評価は半々だったけど、私は文句なしの★5つを贈らせてもらいます。

今のところ「「「当事者」の時代」を読んで」にコメントは無し

コメントを残す