速水健朗さんの著作。
Podcastでよく聞いている、TBSラジオ「Life」で扱ったテーマ「自分探し」で、著者の速水さんもラジオ出演され、話が非常に興味深く面白かったので、紹介されていたこの本を購入。
「自分探し」は、世間的には「現実逃避」とか「モラトリアム」など、どちらかというネガティブなイメージが強い。
しかし、そんな悪いイメージのモノなのか?「自分探し」とはそもそも何なのか?
この疑問を改めて考えてみることを目的に読んでみた。
目次は以下の通り。
第1章 世界に飛び出す日本の自分探し
第2章 フリーターの自分探し
第3章 自分探しが食い物にされる社会
第4章 なぜ自分探しは止まらないのか?
一言で「自分探し」と言っても、自己啓発など「内面」的なモノと、海外への旅など「外面」的なモノがあると著者は述べているが、結局「答えは自分の中にある」という価値観に皆が染められていると考えると、内面的なコトなのだろう。
この本を読んで、「自分探し」とは、「やりたいこと」と「やるべきこと」の違いを理解することにポイントがあると思った。
「やるべきこと」はわかりやすい。
「現実」だ。
日常生活で何が「やるべきこと」なのか?は、ちょっと考えればすぐわかる。
たいていは人間の生理的な要素が原因で発生していることだから。
一番大事なのが「食べる」こと。
次が「寝る」こと、つまり寝床を用意する、住む場所を決めることだ。
ライフライン、電気/ガス/水道を確保すること。
その他は、実は得に無い。
極論を言えば、住居やライフラインさえも必要ない。
(ライフラインの「水」を、飲み水以外と考えれば)。
食べられれば、人は生きられる。
これは誰が考えてもあまり違いはないだろう。
次に「やりたいこと」だが、これは「理想」だ。
これは「見つかっている」「見つかっていない」という2つの状態に分かれる。
「やりたいこと」が「見つかっている」、つまり「目標がある」人はそれに向けて頑張ればいい。
フリーターでも非正規社員でも正社員でも、立場は関係ない。
つまり、この本で言う「自分探し」をしている人は、「やりたいこと」が「見つかっていない」人、だと言えると思う。
結局、数ある自己啓発本やセミナー、自分探しの旅なども、「目標」を見つけるための手段でしか無いと思う。
ここでいう「目標」を、「人生の目標」や「仕事で実現したいこと」など、大きな目標と考える人もいるだろうが、私はそうは思わない。
別に小さな目標でもよい。
単純に「タイに行きたい」とかでも良い。
「行って何をするか?」など、後のコトなど考える必要は無い。
タイに行きたいという「目標」には、何かしらそう思わせる理由があったはずであり、「行きたい」のだから「行けばよい」。
それで「目標」達成だ。
そして、「目標」は1つ成し遂げると、何かしら次の「目標」が見えてくる。
行動を起こしたことで、何か次の変化が生まれる。
私はそれで良いと思う。
「目標」に一貫性が無い人も「自分探し」をしてる人に分類されることもあるが、これは絶対に違う。
必ずしも、全員が頂上を目指して山を昇る必要は無い。
1合目まで着いたらそこから降りて、また違う山を目指しても良い。
1合目や2合目の景色を眺めるのが好きな人もいるだろう。
5合目当りで昇るのを辞めて、そこから下へハンググライダーで降りても良い。
山にはいろんな楽しみ方がある。
「山は頂上に登らなければ山ではない」という価値観を押し付けられるのは迷惑極まりない。
そして、この本で改めて認識したのが、「選択肢の少なさ」だ。
昔でいえば、年功序列/終身雇用の「サラリーマン」という生き方が、今は「大きな目標に向かって仕事をする」という生き方に変わっただけ。
結局は単種類でしかない。
何故、「やるべきこと」だけやって生きる生き方や、「やりたいこと」を探す生き方、「好奇心の赴くままに小さな目標を仕事にする」生き方が容認されないのか?
先日まで私は転職活動を行っていたが、企業面接で決まって聞かれるのが「5年後のなりたい自分は?」という質問。
これは「大きな目標に向かって仕事すべし」という価値感の押しつけではないのか?
聞かれるたびに、違和感と嫌悪感を感じる。
全員が全員、大きな目標に向かって進まなければダメなのだろうか?
5年後、10年後の自分を想像していない人はダメ人間なのか??
別にかまわない。
今自分が何を考えているか、感じているかをベースに行動を決めれば良い。
その積み重ねで将来の道が見えてくる。
夢に生きてる人を食い物にするビジネスがはびこっているのは、ほんと世知辛い世の中だと思うが、若い人はそういったビジネスに騙されることなく、「自分探し」なんて卑下した呼び方に屈することなく、老いも若きも、思うままに「やりたいこと」を探し続けて悩めば良いと思う。