検察が主導する正義

久々にマル激からのネタ。
マル激のタイトルは「公認会計士は、なぜ特捜検察と戦うのか」。

2004年に、当時害虫駆除会社キャッツ社の公認会計士だった細野祐二氏が、粉飾決算に加担としたとして逮捕/起訴された。細野氏は「無罪」を主張するも、1審2審で「有罪」判決。現在は最高裁へ上告中。

詳細は、著作「公認会計士vs特捜検察」を読むと詳しいと思うが、自分はまだ読んでいない。このブログは、今回マル激で扱った内容のみ題材として書いているコトは始めに断っておく。

事件の概要は、キャッツ社が銀行から他社買収のため融資を受けた資金を、自社株の買い戻しに使い、その行為自体が「株価操作」、またそれに関わる会計上の処理が「粉飾決算」に当たるとして、特捜がキャッツ社幹部と公認会計士だった細野氏を逮捕/起訴した。

「株価操作」と「粉飾決算」は別裁判として扱われ、「株価操作」についてはキャッツ社社長は起訴内容を認め、既に判決済み。執行猶予付きの「有罪」となっている。細野氏は「株価操作」とは別の「粉飾決算」の容疑で裁判を行っていることになる。

番組での話を聞くと、明らかに細野氏に粉飾する意志は無かったコトがわかる。また、意図的ではないにせよ、会計上不備が発生した結果になってしまった、ということも無い。会計上は全く問題ない処理をしている。

では、何が問題なのか?

現在は最高裁に上告中だが、1審ではキャッツ社幹部は細野氏が粉飾決算を首謀したと証言したが、2審(高等裁)では検察に事実とは違う証言を強要されたコトを自白し、1審の判決と完全に食い違いが生じてしまった。しかし、高等裁は「無罪」とは判定せず、判断を保留。事実上、「有罪」を押し通す形になった。

当たり前に思考すれば、粉飾する動機が全く無い細野氏が「無罪」なのは明白だが、検察が描いたシナリオは「懲罰の意味も兼ねて有罪にする」そして「他の公認会計士の見せしめにする」というもの。

これはりそな銀行や足利銀行で粉飾決算が発覚し、公認会計士や監査法人への信頼度が落ちていることや、アメリカのエンロン事件のように粉飾決算が社会的な問題となっていることに対して、楔を打ち込む意図が検察側にはあったと推測される。

ライブドア事件に見られるように、検察の「一罰百戒」主義への転向については以前ブログでも書いたが、今回も同じスキーム。検察には、事実と違えど、社会的な「規範」を維持するためであれば冤罪も辞さないという動機があるように思える。冤罪など大事の前の小事、と考えている節さえある。

社会的な規範を維持するため、あえて一罰百戒的な処置を行う有用性は認めなくはない。しかし、今回明らかにおかしいコトが2点ある。

まず1つ目は、どんな見方をしても細野氏に非は全く無いということ。
これは検察側の会計知識に対する不足が原因だろう。

2つ目は、結果的に目指した規範「公認会計士を罰する」ということが社会的にほんとに意義があるのか?ということ。前回のブログでも書いたように、ソーシャルデザインを検察が行うことにはかなり疑問がある。会計知識不足でその戦略を誤るなど言語道断。こんな無能な組織にデザインは任せたくはない、というのが正直な気持ちである。

自分はエリートの有用性は認めるし、社会には絶対に必要だと思っている。
エリートは凡人とは異なる。それも認める。
しかし、エリートの条件として、「自分の誤りを認める」というのは必須だと思っている。
プライドを持つのは良いのだが、妙にプライドだけ高くて、己の非を認めないなどエリートでは無いし、そんな連中に権力を握らせても百害しかない。

この件は、その証明ではないだろうか?

日本の司法制度そのものの問題もあるが、何より、検察(特捜)が数ある事件の中から象徴的な事件を裁き、それを持って社会に規範を示す、というスキームがもう既に限界なのではないか?肥大した自尊心など持たなくてよいので、検察(特捜)はその本来の役割を粛々とこなしていればそれでよい。

今回こんなくだらない事件に巻き込まれてしまった細野氏には心から同情するが、何より検察の描いたシナリオに組さなかった、その「勇気」を称えたい。おかげで、このように真実が世に広まる機会が生まれたのだから。

この事件が、日本の司法を変えるきっかけに、ほんの少しでもなってくれればと願う。
まぁ、番組で宮台さんが言っていたように、政治の世界で政権交代して、検察の連中にもスキームチェンジがあるという危機感を持たせるくらいしか、司法が変わるきっかけは無いのかしら?

今回知ったこの事実から感じるのは、そんな検察や司法に対する、諦めにも似た何とも情けない思いだけである。。

今のところ「検察が主導する正義」にコメントは無し

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