「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」を読んで考える未来

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の新作「ホモ・デウス」。
前作の「サピエンス全史」の続編となる。

英語版は昨年2017年に既に発売されてたけど、日本語訳がようやく2018年9月に発売された。
前作をめちゃ楽しく読ませてもらったので、続編の今作も心待ちしてた。

いやー、読み終わったけど、本当に面白かった!!!
前作も十分衝撃的だったけど、今回もホントにたくさんの刺激をもらった。

そのもらった刺激を忘れないために、ブログにまとめておこうと思う。

歴史を俯瞰する

まず、この人の本は「歴史」から入るのが特徴的。
歴史から入る理由は、著者の以下の言葉にすべてが込められているように思う。

歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。

要するに、私たちの選択肢は1つではなくもっとたくさんある、ということだ。
選択肢がないように思えるのは、そういう状況を誰かが意図的に作っているからであり、歴史を学んで視野を広げれば、その選択肢が限られたものだとわかる。自分の可能性(選択肢)を自分で狭めないためにも、歴史を知っておく必要がある。

歴史を学ぶ意義はそこにある。

そして、著者はその歴史を著者の膨大な知識を踏まえた上で独自解釈をし、未来がどうなるかを予測する。
その解釈がいちいち納得できるしわかりやすい。

なるほど、歴史をこうやって解釈するのか!!と。
改めてハラリフィルターを通して見て、世界史の見識がより深まったように思う。

2作品のテーマ

「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」は、1作品として読むべき本。
通底するテーマとして、いくつか抜粋する。

  • ホモ・サピエンスの「虚構」
  • 「認知革命 ⇒ 農業革命 ⇒ 産業革命 ⇒ 科学革命」の推移
  • 「言語(文字)」と「貨幣(数字)」の発明
  • 「一神教・二元論・多神教」の宗教
  • 「飢餓・疫病・戦争」の克服から「不死・至福・神性」の獲得へ
  • 「客観的・主観的・共同主観的」なもの
  • 「経済成長」という資本主義(宗教)の絶対要素
  • 「進化論的・自由主義的・共産主義的」な「人間至上主義」
  • 「経験する自己」と「物語る自己(=アイデンティティー)」
  • 「知識」と「意識」の分離
  • 「データ処理システム」としての民主主義・共産主義などのイデオロギー(宗教)

1つ1つのテーマはかなり密度が濃い。
腑に落ちるまで理解するには2作品を読むしかないが、このテーマを見直すだけでも流れは理解できる。

まず、前作の「サピエンス全史」を読んでハラリ氏が卓越だと感じたのが、この「虚構」という概念。

なるほど、たしかに人間(ホモ・サピエンス)が自らの経験を「物語る」際に使うフレームはすべて「フィクション(物語)」であり「虚構」だ。
「言語」も「貨幣」も「国家」も「宗教」も「資本主義」も「自己(アイデンティティー)」もすべて「虚構」。本来は形がなく何もない。しかし、この世界に「意味」を見出すためには、この「虚構」は必要だ。

実際のところ、人間が生きている意味なんて全くない。

それは、ある程度の年齢まで生きていれば実感としてわかる。
また、この結論は、仏教にも詳しいハラリ氏が当然辿り着く結論のようにも思える。
ただ、それだとあまりに彩りがない。
100年、ことによると150年くらいの寿命を生きる上で、「意味がない」と思って生きるのは、多くの人にとってはツライ。

だからこそ、意味があると自分自身に思わせるためにも、「虚構(意味付け)」が必要なわけだ。
「キリスト教」「イスラム教」「仏教」などの宗教も、その「意味付け」を行うための仕組みでしかない。

そう考えれば、多くの人間が「認知的不協和」を起こす理由もよくわかる。
このブログで使っている日本語という言語を含めてすべて「虚構」なのだから、「現実」と「意識=物語る自己」は距離が離れやすく、あまりに離れすぎると、いとも簡単に「不協和音」を奏で始める。だからこそ、物語る自己が語る内容はある程度「現実」に即したものである必要がある。

では、人間にとっての「現実」とは何か?
自分の「身体」含めた、客観的な事実として存在するこの「自然」だろう。
(「経験(体験)」ではない。「経験」はどのみち「物語る自己」が勝手に書き換える。)

客観的な「自然」と「身体」と「意識(物語る自己)」を、バランスよい距離感をもって統合する。

「子供は自然の中でスクスクと育つべき」「健全な肉体に健全な精神は宿る」「適度な食事と適度な運動」・・昔から言われるこれらの教訓は、結局「意識(物語る自己)」と「現実(自然&身体)」が乖離しないように「バランスを取れ」と言っているにすぎない。

なるほど、ホモ・サピエンスは「虚構」を生んだ7万年前から、「アニミズムのオペラ」⇒「神との対話劇」⇒「人間のワンマンショー」と変遷しつつも、こうやって生きてきたのか。。。

振り返ってみると、正直、現在の万物から切り離されたワンマンショーを演じている「個人」という立場はドン詰まりのように感じる。
「虚構」で構成されている人間をバラバラの個人にしたところで、何も生まれるはずがない。道徳や倫理などの共同主観的な価値観が、砂粒の個人から生まれるとは到底思えない。
狩猟採集民族で万物を敬っていたアニミズム時代の方が、人間は幸せだったんじゃないだろうか?

中間層が分解し、徹底的に個人に分断された現在の日本社会では、それをより痛切に感じる。

AIはどこまで人を代替するか?

ハラリ氏の話は、AIの知識があった方がより理解が深まる。

私は、個人的に機械学習やディープラーニングの学習をしており、仕事として「データサイエンティスト」の道を進むことを選んだ。

だからこそ、ハラリ氏の話が腑に落ちる。

ハラリ氏が言うように、おそらくAIが「意識」を持つことはない。
これは以前読んだ新井紀子さんの「AI vs 教科書が読めない子どもたち」でも同じことを言っていた。「シンギュラリティ(技術的特異点)は来ない」と。

私もこの意見に賛成だ。
今のAI技術の延長で、AIが「概念」を獲得して人間を超えるようなシンギュラリティなど絶対に来ない。

しかし、そもそもAIが「意識(概念)」を持つ必要があるのか?
言われてみれば別に必要ない。
多くの仕事は「知識」さえあれば良い。

私は常々仕事を遂行する上で一番障害になるのは「人間」だと思っている。
何も理解していないが立場(プライド)だけが高い上司も、知識がないパートナーも、感情的な同僚も、結局適切に業務を遂行する上で邪魔にしかならない。
であれば、仕事をする上で関わる人はできるだけ少ない方が良い。

それが現時点での私の結論。
ハラリ氏の話は私のその結論にも沿っている。

まぁ、すべての仕事で人間が必要ない、なんて暴論を吐くつもりはないが、多くの仕事で必要ないのはたしかだと私は考える。
それは取締役などのボードメンバーやマネージャーなどの管理者も一緒。決断しないメンバーなど不要。たとえ確率論で選んで選択だとしても、決断してくれるならAIで良い(人間の選択方法と大して変わらないだろうし)。

ハラリ氏は「生き物はアルゴリズムにしかすぎないのではないか?」と投げかけている。
仮にそうなのであれば、数百年のスパンかもしれないが、いずれほぼすべての人間の業務はAIに置き換わるだろう。

個人的には生き物はアルゴリズムだとは思っていない。
シナプスの発火による信号をアルゴリズムと呼べばそう言えるかもしれないが、さすがにそれを「アルゴリズム」とひとまとめにするのは乱暴すぎると思う。
よって、すべての仕事がAIに置き換わるとは思えない。

しかし、個人に「成り下がった」人間が、アルゴリズムと呼ぶのは失礼なほど複雑な存在かというと・・・何とも言えない。

現在のマーケティング

これは余談だが、マーケティングの世界でも、ここ数年は「経験(エクスペリエンス)」がもてはやされている。

マーケッターが考える一番重要なことは、「ユーザの経験(体験)」なのだ、と。
そして、「経験」させる上で重要なのが「ストーリー(物語)」である。
このフレームワークは、「ホモ・デウス」で扱っている右脳的な「経験する自己」と、左脳的な「物語る自己」にそのまま当てはまる。

つまり、ユーザにより多くのものを消費してもらうためには、もっと積極的に「虚構」を利用するべきである、というのがマーケティングが現時点で辿り着いた結論なのだろう。
価値観が多様化した=バラバラに分解された個人にアプローチするには、すごく有効だと思う。

共同主観的な価値観が通用した時代には、個々人の欲求もある程度均一化されていたため、テレビCMのようなマス媒体だけで大多数の「現実」を「虚構」に上書きできたわけだが、マス媒体が通用しない現在においては、もっと各個人(自己)に対して「虚構」を上書きするフレームが必要、それがこの「経験する自己」と「物語る自己」を利用する方法、ってわけだ。

「マーケティング」とは、所詮この資本主義社会で「経済成長」を促すために、バラバラになった「個人」にどれだけ多く消費させるか、個々人を良き消費者にさせるためのソリューションでしかない。つまり、マーケティングは消費マシーンを生み出すための方法論でしかないわけだ。どんなに立派なお題目を唱えたところで、この事実は変わらない。

一時期マーケッターをやってた自分としては、この残酷な事実は悲しくもあるが、致し方ない現実だろうな、とも感じる。

未来を推測する

本作で、ハラリ氏は(あくまで一部の人間だけだが)人間は神性を獲得して「超人」になるかも、と推測している。これは予知ではなくこうなるかもしれない未来の「可能性の1つ」でしかない。

ただ、2018年時点で、クリスパーなどの遺伝子技術が発展し、遺伝子操作が簡易にできるようになっている状況を考えると、あながち暴論とも言えない。普通にありえる未来だと思う。

しかし、AIに仕事を取って変わられ、自分よりも自分のことを知っているAIに管理されるようになり、寿命すらもコントロールできるようになったときに、人は一体何の目的で生きればよいのか?

これは、今後本格的にAIが社会に普及する過程で、我々が考え続けなければいけない問題である。

最後に、本からの引用になるが、これは自分が忘れず後々問い直す意味でも、著者が問う3つの重要な問いを書き留めておきたい。

  1. 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
  2. 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
  3. 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるか?
今のところ「「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」を読んで考える未来」にコメントは無し

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