ネット上の知的所有権

ローレング・レッシグ著「コモンズ」という本を読んだ。

レッシグ博士は日本でも結構有名な学者さんみたいですね。

おおまかに言えば、ネット上の知的所有権(著作権)についての本なんだけど、凄くタメになった。さすが学者さん、慧眼というか物事を見る視点が面白い。

氏は、「コモンズ」を、「共有のもの」として保有されているリソースと考える。これは「フリー」で使用できる。フリーと言っても、無料という意味だけじゃなくて、誰も排他的な権利(独占権)は持ってなく、「フリーにアクセスできる」コトが何より重要と説く。公道や公園はコモンズだし、アインシュタインの相対性理論もコモンズだ、と。

また、コモンズというリソースを「競合的」「非競合的」なものに分ける。公園は競合的なコモンズで、誰かが使うというコトは他の誰かが使えなくなる可能性がある(公園という敷地は有限なので。お花見時期の公園を思い出すとわかるけど)。一方、相対性理論は非競合的で、誰かがその理論を使っても、他の人が使えなくなるってことは無い。

この競合的なリソースは、政府や市場がコントロールしてるわけだけど、ほんとに適切なコントロールを行っているのか?インターネットは創造的なイノベーションを起こせる場所(コモンズ)だが、それが浸食され、創造性が失われてるんじゃないか?

この論点から話がスタートして、電話線などの有線や周波数を使った無線などの物理的なリソース、そしてUnixやWindows、LinuxなどのOSや、ブラウザなどのソフトウェアが生まれ発展していく歴史的な経緯をたどりながら、インターネットがいかに創造的なコモンズか、そして現在どのようにそのネット上のコモンズが失われる方向へ進んでしまっているのかを、わかりやすく説明してくれる。

政府は本来社会の調停者で、国民が創造性を発揮するための「自由を保証するための規則」を作り、既得権益者や市場に便益が片寄り過ぎたりしないよう最適なバランスを取るのが役割のはず。著作権などの知的所有権という権利も、本来は「国民の便益のため」に保証されてるもの。

そーいう大切な視点をこの本は教えてくれる。

氏はアメリカの学者なので当然アメリカ社会を前提にして書かれた本ではあるんだけど、これは日本でも当てはまる。というか、むしろ日本の方がより悪い状況だと思う。
社会の中で既得権益者が力を持ち、政府がその力に擦り寄る、なんてことは(人間が運営してる以上)どこの国でも同じだとは思うけど、日本はそれをチェックするためのメディアなどのカウンターパートが、アメリカよりも正常に機能していないからだ。

社会全体のバランスは政府だけが取るものじゃなくて、政府や市場やメディアや市井の有識者(ヤクザなど裏社会も含めて)を含めた「システム全てのプレイヤー」で取らなきゃいけない。そして、そのバランスを取るためには、自分達がどんなシステムに乗ってるかってことに対して自覚的じゃなきゃダメだと思う。

工業立国から、知財立国へ…あまり自覚する事なく何となーく(笑)シフトチェンジしている日本の現状。そもそもその権利は何のためにあるのか?システムを自覚し理解した上での戦略とはとても思えない。

自分はインターネットに絡んだ仕事をしてるので、所謂「オープンソース」の恩恵にあずかる事が多いし、氏の言ってる事も割とすんなり消化できたけど、業界独特のお話もあるので予備知識無しだとちょっと読みづらいかもしれない。

けれども、例えばipodへ取り込んだ音楽データに関する著作権保護を求める動きなど、著作権強化が当然の現在の風潮を少しでもおかしいんでは?と感じる人であれば、この本を読んで著作権が何のためにあるのか、そして著作権が過剰に保護されている社会がどんな方向へ進んで行くことになるのかを、改めて考えてみるきっかけになるんじゃないかと思う。

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